研究概要

個の細胞から観た炎症組織・個体(社会)を語る初めての生命科学・予防医学の創成

治療から予防へのパラダイムシフト

急速に高齢化が進行する我が国の社会を持続可能なものとするためには、慢性炎症を基盤とする生活習慣病、線維症、がんなどを予防し、また一度発症しても早期に診断・介入する健康維持システムの構築が喫緊の課題です。従来の予防医学では、疫学および生化学、細胞生物学に基づき危険因子を推測し、健康リスクを低減するアプローチに主眼が置かれてきました。これらのアプローチは、疾患の発症における多数の危険因子の存在、例えば自然環境、社会環境、労働環境などの外的環境因子や、生活習慣などで変化する内的環境因子を詳らかにし、時として疾患の克服をもたらしました。また、ヒトゲノムプロジェクトに端を発したゲノム疫学の進歩は、ゲノム点変異などの遺伝要因が疾患に関与することを示す一方で、多くの難治性疾患の発症には遺伝要因以外の外的・内的環境因子が大きな影響を与えること、すなわち可塑性があるが故に予防可能であることも明らかにしました。しかしながら、日常生活から全ての危険環境因子を排除することは至難であることから、予防医学における現実的な課題は、疾患の生物学的な発症機序を理解した上で、リスクを重み付けし、またバックアップとして疾患を早期に診断し、介入する手段の確立が必要です。

 

個の細胞から観た炎症組織・個体を理解する【炎症細胞社会学】

時間軸で慢性炎症性疾患の進展を考えた場合、個体に対する内的・外的環境ストレスは、免疫系や内分泌系などを介する生体防御機構としての炎症を惹起します。炎症が持続または繰り返すことで、自覚症状を伴わない組織病変(未病状態)を経て、細胞・組織に機能障害を伴う異常な適応状態が定着し(炎症記憶)、この慢性炎症状態が持続すると、線維化などにより臓器の機能異常が不可逆化し、糖尿病、脳・血管障害、慢性腎臓病や肝臓疾患などの生活習慣病に至ります。このような疾患の形成過程を組織・臓器レベルで考えると、個々の細胞の変質に加え、細胞種(組織構成細胞と浸潤免疫細胞)や活性状態の異なるヘテロな細胞間の相互作用の変質、低酸素状態、非生理的な代謝応答、細胞外基質・液性因子ネットワークの変質が起きていると考えられます。生体組織は、呼吸、消化機能などを目的として機能の異なる細胞間の相互作用に基づき維持されています。これは、性別、年齢、職業や能力などが異なる個々の人間から構成され、流動性を持つ個人間の繋がりや、一定のルールを基礎にして成り立つ人間社会に見立てることができます。本研究領域では、“炎症組織=炎症細胞社会”と考え、疾患の進展に伴う炎症細胞社会の変遷をモデル化し、その予防制御を目指しています。

 

炎症細胞社会学を実現するための包括的1細胞遺伝子発現解析

従来の免疫学的・病理学的アプローチに基づく炎症研究アプローチは、組織全体もしくは数百〜数万個の細胞からなる細胞集団における質的、量的変化を平均化して捉えるものであり、未病状態、すなわち局所的にごく一部の細胞に異常が生じ、その異常が周辺細胞にも影響を及ぼすことで生じる細胞社会の変容や、その複雑な動作原理を解明することは困難でした。この限界を克服すべく、本研究領域では数千から数万個の単位で個々の細胞の遺伝子発現プロファイリングを可能とする、マイクロデバイスを用いた包括的1細胞遺伝子発現解析技術を用いて炎症組織を解析します。この技術は、未病状態におけるごく少数の異常細胞の捕捉、炎症組織を構成する個々の細胞が持つ性質と役割の解明に加え、情報科学との融合により、多数の細胞間相互作用モデルの構築を可能にします。さらに、上記細胞間相互作用モデルに対し、各1細胞の時空間動態や組織内局在の情報を加えることで、炎症組織を1細胞単位で立体的に再構築できると期待しています。

 

研究目標

本研究領域を推進する中で、日常生活で曝露する種々の内的・外的ストレスから慢性炎症性疾患に進展する過程の各段階に関与する分子、細胞、シグナル経路、代謝経路を有機的に統合した“炎症の起点、遷延化、不可逆化の場の記憶としての炎症細胞社会”のモデルを構築したいと考えています。疾病の転機を定量的な分子、細胞情報として定義することで、これを如何に制御すべきかを生命科学の言葉で語る新たな予防医学が創成できると期待しています。また、炎症の遷延化がもたらす医学研究において最も重要な enigma、線維化の機序を解明し、その予防・制御を目指します。そのために、包括的1細胞遺伝子発現解析技術を共通基盤技術として、以下に設定する3研究項目間で高度な連携を保ちつつ研究を展開します。

A01「慢性炎症性疾患における炎症細胞社会の確立」では、臓器、病因の異なる慢性炎症性疾患モデルにおいて、時間、空間情報を含む包括的1細胞遺伝子発現情報などを収集し、炎症細胞社会における疾患の起点、未病状態、遷延化、不可逆化(線維化)を定義します。また、領域内で見いだされた治療標的や、モデルを検証します。

A02「環境因子による炎症細胞社会の制御と分子標的予防法の確立」では、環境ストレス、遺伝要因、シアストレス、低酸素ストレス、老化などの生理的要因と慢性炎症・生活習慣病との連関を解明し、炎症細胞社会を制御するための分子標的を探索します。

A03「炎症細胞社会情報学の確立」では、包括的1細胞遺伝子発現データなどの情報解析や、性質の異なる情報の統合などの新たな手法の開発、慢性炎症性疾患のシミュレーションモデル構築をはかります。